Interview#1

家族の団欒や
思い出作りの
お手伝いができる喜び

  • こだまのどら焼き

    児玉 康さん

ふんわりきつね色の生地に、つやつやの餡。その真ん中には、もっちりなめらかな求肥。
もち入りどら焼きの元祖「こだまのどら焼き」といえば、仙台では知らぬ人のない地元の名菓であり、馴染み深いおやつだ。

今年で、創業から70年を迎えました。老舗なんていうといかにも由緒ありげに聞こえますけど、もともとは私の祖父である児玉 久が上杉4丁目で始めた小さなお菓子屋なんですよ。久は山形の貧乏な農家の生まれで、父と母は旅芸人をやっていたそうです。当然、旅から旅への暮らしに子供を連れては行けず、ずっと祖父母や親戚に預けられて育ったそうです。小学5年生になるまで、父母と会ったこともなかったそうですよ。だからこそ、家族愛というものに大きな憧れがあったのでしょう。仙台の葬儀社に丁稚奉公をし、その年季明けに「何か欲しいものはないか」と訊かれ、当時はまだ珍しい運転免許を取らせてもらうと、タクシードライバーになった。ようやく一人前、という自負があったのでしょう、父母を呼び寄せ、結婚して所帯を持ち、久にとってようやく“家族”での暮らしが始まった。4人の子供をもうけ、孫である私もまた4人兄弟ですから、結構な大家族になりましたよね(笑)。久にとって、「家族の再生」というのが人生の大きなテーマだったんじゃないか、と思います。しかし、時代は太平洋戦争へと突入。久は身体検査に落ち徴兵は免れたものの、ほぼ無一文の状態で戦後を迎えます。「家族を養わなければ」。その一心で闇屋を始めましたが、糊口を凌ぎつつも「これでいいのかという」自問自答を繰り返していたようで……。目標を見失って賭け将棋につぎ込み、随分と祖母に叱られたとか。そんな時にふと周囲を見ると、人が甘いものを食べるときの嬉しそうな顔が心に留まった。小さな子供からお年寄りまで、甘いものを食べるとみんな和やかでほんとうに嬉しそうな顔になる。ああ、甘いものをこんなにみんなが喜ぶのなら、いっちょうやってみるか。それが、出発点だったといいます。

激動の昭和。児玉 久さんにとって商売の原動力は、家族であり、人々の笑顔だった。
戦後まもなく、久さんは現在の上杉4丁目公園近くに店を構え、商いを始める。

今も上杉にある「玉澤総本店」の職人さんと知り合いだったことから、とにかく手っ取り早くできるものを、と教えてもらったのが焼き皮の桜餅です。桜餅といえばもち米生地の「道明寺」が主流で、小麦粉の生地を焼いて作る「長命寺」は江戸流のもの。餅のような柔らかい生地で餡をくるむ包餡はある程度熟練の技術が必要ですから、素人の久にも比較的やりやすい焼き皮の桜餅がよかったのでしょう。店も、純粋な和菓子屋さんといえるものではなく、森永のキャラメルなども仕入れて一緒に販売する、中ば駄菓子屋のようなものだった。格式なんてなくって、ほんと生活の再建から始まったんです。当時の上杉4丁目はまさに「三丁目の夕日」そのままの世界で、隣近所みんな肩寄せ合って暮らすその風景が、写真に残されています。

何の変哲もない、街場の菓子屋。
その店が大きなターニングポイントを迎えたのは、昭和25年頃のことだった。

復員してきた職人さんを雇わせて頂いて、ようやく菓子屋の体を成してきた頃、売れ残ったどら焼きに、これまた売れ残った求肥をひょいっと挟んで食べたら、これがやたらおいしかった。これを原型にしたものを新商品として店に並べたら、これまた評判がよかった。それが昭和25年頃の話です。最初は、名前も適当に「仙台どら焼き」と書いていたのですが、評判が上がるにつれ「ちゃんと名前を付けよう」ということになり、「児玉さんちのどら焼きだから、『こだまのどら焼き』でいいだろう」とこれまた適当な感じで名前が決まった。今となっては「仙台どら焼き」の方がいろいろとよかったかな、などと思うこともあるのですが(笑)、ご近所さんやお馴染みさんが「こだまさんちのどら焼き」として親しんでくれたことが名に繋がり、今もそうあることに嬉しさと誇りを感じています。

創業当時から、今なお変わらぬ手しごとで職人が焼きあげる生地。
北海道産の小豆を2日かけて丁寧に炊いた餡。
「こだまのどら焼き」と聞いて、子供からお年寄りまで誰もが思い浮かべる共通の味があることに、
あらためて老舗の尊さを感じる。

素材や配合は時代によって変わっても、味の方向性は変わってません。ふわっとしっとりした皮が、うちの身上です。即捏ねと言って、直前の30分か1時間以内に仕込んで、寝かさずに焼く生地。それがふんわり仕上がる秘訣なんです。製造工程の効率からいえば、前日に仕込んで寝かせる方が楽なんですが、それだと空気が抜ける。たっぷり空気を含んだ捏ねたての状態で焼くから、ふんわりと空気を含んだきめの細かいスポンジ状の生地になる。そのこだわりはずっと受け継がれています。『こだまのどら焼き』のキャッチフレーズは、「大切な方へ親しみを込めて贈る懐かしい味」。懐かしさやあたたかさ、それがふんわり感に集約されている。餡の甘さや求肥の食感も、皮の美味しさを生かす配合にしてあるんです。

今回の都の杜プロジェクトへの参画は、
児玉さん自身の大きな共感が起点になったという。

創業70周年を迎える店の三代目として、あらためて地元回帰に取り組まなくては、と考えていたところに、都の杜プロジェクトの理念がとてもしっくりきたんです。平成は、外へ外へと商売を広げる時代だった。でも、それで大切な何かが薄まってしまったようにも感じていた。でもこれからの令和は、地元のお客さまや関連企業との繋がりをブラッシュアップしていく時代だと思ってるんです。いま改めて、ご縁のあったと名刺交換したり、店の売り場に立ったりしていると、たくさんの方が「こだまのどら焼き、懐かしいですね」とか「うちのばあちゃんが大好物で」とか、「お土産にいつも喜んでもらってます」と嬉しい言葉をかけてくれる。皆さんの思い出の中に、こだまのどら焼きがある。それってとてもすごいことで、うちはどら焼きを通して思い出を売っているのかもしれない、と思うんです。

お金は使えばなくなるし物は壊れる。けれど、思い出はなくならない。次の世代にもちゃんと伝えることができる。こだまのどら焼きが、家族の団欒や思い出作りのお手伝いになることが、私たちの商売の喜びだと思います。都の杜プロジェクトは、こうした古き良きもののリブランディングに大きな機動力を与えてくれるもの。そして、新たな商品づくりのための機動力をも有している。「いろどら スイートチョコ」はその最たるものです。これまでのわが社にない商品を、と考えても、自社だけでは自分たちのやれる範囲、現状の延長でしかアイデアが出てこなかった。そんな時に、「都の杜」プロジェクトのコーディネーターである山本さんから仙台の洋菓子店『九二四四』さんとのコラボを提案されたんです。『九二四四』の橋浦さんの商品への理解と技術がなければ、「いろどら」は実現しなかった。

そして9月からは、伊坂幸太郎氏原作のオール仙台ロケの映画『アイネクライネナハトムジーク』とのコラボも待っています。これもまた、プロジェクトあればこその企画です。都の杜プロジェクトは、チームプロジェクト。文殊の知恵ではないけれど、個々では出てこないアイデアや持っていない技術がチームとして集まることで、新しい形にできる。そうしてみんなで作った商品を、みんなで広め、売っていく。足りないものを補い合い、貸し借りしながら、互いを理解し、吸収していく。それがまた新しい商品や活動の源になる。この輪の広がりと循環は、仙台そのものの活性化に繋がっていくでしょう。私みたいに、停滞する自社の状況に活路を見い出したいと悩んでる二代目・三代目の経営者も多いと思うんですよ。そういう人にも、とても意義のあるプロジェクトだと思います。